「令和の音楽はキモい」「平成の曲を過大評価しすぎ」──そんな言葉がネット上で飛び交うのを見たことはありませんか? rの住人ピエロというYoTuberが指摘した「令和の曲は承認欲求の塊でキモい」という主張。 一見、過激に聞こえますが、その背景には日本の社会が大きく変化した、ある「真実」が隠されていました。
令和と平成、決定的に違う「時代の空気」
「令和のアイドルは『私可愛いでしょ? 幸せになるために押してね』って承認欲求強めの悲鳴」 「平成のアイドルは『私たちが日本を元気にしてやる』って気概あふれるパワー」
この投稿者の言葉に、あなたはどんな感情を抱きましたか? 「うるせぇわ」「私は最強」「可愛くてごめん」──令和にヒットした曲は、まさに「個人の物語」を肯定するものが主流。 SNSの普及により、誰もが自分の意見を発信できる時代になった結果、一人ひとりの「承認欲求」が剥き出しになりました。
一方で、平成の音楽はどうでしょう? 「LOVEマシーン」のモーニング娘。や、「O-JAN-A」のH jungle with t。 これらの曲は、「社会全体を元気にする」という大きな物語を歌っていました。
なぜ、これほどまでに時代の空気が変わってしまったのでしょうか? それは、私たちの生活を根本から変えた「ある事実」にあります。
終わらない経済停滞と諦めが生んだ「個人主義」という病
平成初期、日本はバブル崩壊、リストラ、就職氷河期という「暗黒時代」に突入しました。 自殺者数は激増し、社会全体が末期的なムードに包まれていた時代です。 そんな中でも、私たちは「いつか日本はまた成長する」という希望を捨てていませんでした。 1990年代は、日本の将来に期待する人が約70%もいたのです。
しかし、その希望は30年経っても叶えられることはありませんでした。 実質賃金は横ばいどころか下降し、世界で唯一、経済が停滞し続けた国。それが、私たちの日本です。 それでもなぜか、多くの日本人は「自分は中流」だと答える。 これは、「落ちる落ちる」と言われ続けた社会に適応し、「現状が普通」だと感じてしまう、恐ろしい「順応」の結果なのです。
いつしか、「日本はもう伸びない」という諦めが共有されるようになりました。 そして、「大きな物語」を諦めた私たちは、「自分や家族の小さな幸せを守ろう」という「小さな物語」にシフトしていきました。 日本の将来への期待が30%台まで低下した一方で、「自分や家族の小さな幸せを大事にしたい」と答える人が8割を超えるようになったのです。
あなたも無意識に「小さな幸せ」に逃げていないか?
かつて、日本の経済成長を信じ、みんなで力を合わせて日本を盛り上げようという熱気が、平成の音楽にはありました。 それが今や、「個人の幸福」だけを追求する時代。 「国民的ヒロイン」を応援するのではなく、「私を推してくれる数万人」のファンに媚びるアイドル。 「みんなで頑張ろう」ではなく、「私は最強」と叫ぶアーティスト。
これらはすべて、日本経済の失敗と、その結果生まれた社会の諦めが、私たちの思考や行動を歪めている証拠です。
もちろん、個人が幸せを求めることは悪いことではありません。 しかし、この「小さな幸せ」に固執する風潮は、やがて私たち自身の首を絞めることにならないでしょうか? 「やがて個人幸福だけでは限界だと感じる瞬間が来る」 投稿者が残したこの言葉は、私たちに突きつけられた、痛烈な警告なのかもしれません。
あなたは、この状況をどう思いますか?
まとめ:ピエロの見解、令和の音楽は時代を映す鏡、個人主義から共同体意識の再構築へ
令和の音楽が「承認欲求の塊」と揶揄される背景には、日本社会の根本的な変化があります。30年に及ぶ経済停滞と希望の喪失が、「大きな物語」から「個人の小さな幸せ」へと私たちの価値観をシフトさせました。
平成の音楽が「みんなで日本を元気に」という共同体意識を反映していたのに対し、令和の音楽は個人の感情や自己肯定を中心とした表現が主流となっています。これは単なる音楽性の変化ではなく、社会構造の変化を反映したものです。
しかし、この「個人主義」への傾倒は持続可能なものでしょうか。現代の若者たちが直面する問題—気候変動、格差拡大、国際情勢の不安定化—はどれも個人の力だけでは解決できません。
今後求められるのは、過去の「大きな物語」への単純な回帰ではなく、個人の尊厳を守りながらも共同体意識を再構築する新しい価値観ではないでしょうか。令和の音楽は「承認欲求の塊」なのではなく、過渡期にある日本社会の姿を映し出す鏡なのかもしれません。
時代は常に変化します。音楽もまた然り。大切なのは、その変化の意味を深く理解し、より良い未来への道筋を見つけることではないでしょうか。
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