YouTubeチャンネル「石井雄己」で、YouTuberの石井雄己氏が投稿した動画が話題を集めています。その内容は、「なぜ高学歴はここまで無能ばかりなのか」という、一見すると過激ともとれるテーマ。しかし、彼の語り口は独特の視点と経験に裏打ちされており、現代社会における「知性」や「エリート」のあり方について深く考えさせられるものとなっています。
高学歴アンチの原点:偏差値75の進学校で見た「エリート」の実態

石井氏自身、中学受験を経て偏差値75という超難関進学校に進学した経験の持ち主です。彼が在籍していた高校は、毎年東京大学、京都大学に各10名、医学部に20名もの合格者を輩出し、学年200人中、上位層は大阪大学、中間層は九州大学、そしてそれ以下の層でも広島大学に進学するという、絵に描いたようなエリート養成校でした。世間一般から見れば、まさに「高学歴エリート」と称されるべき人材がひしめき合う環境だったと言えるでしょう。
しかし、石井氏の目には、そこに「知的な深さ」や「面白い」と感じさせる生徒はほとんどいなかったと映ります。彼が目の当たりにしたのは、「俺は数学で何点取った」「この英単語を使うのはきつい」といった、学力自慢や競争意識ばかりが先行する姿でした。まるで「俺はハイレベルな数学をやっている」と誇示するかのような言動は、彼にとって非常に「エリート主義的」であり、大嫌いだったと語ります。
「選ばれしエリート」意識と根深い差別意識
石井氏は、当時の同級生たちに対して「ロクなやつがいない」と手厳しく批判します。彼らが抱いていたのは、自身を「選ばれたエリート」だと強く認識する感覚。そのため、平気で地元のいわゆる「ボーダーフリー」と呼ばれる大学に通う学生たちを「意味が分からない」「ありえない」と公言していたといいます。彼らの間には、「人は対等ではない」「人の価値は平等ではない」という、根深い不平等主義的な考え方が蔓延していたのです。勉強ができる自分たちこそが価値ある人間であり、そうでない者は価値が低い、と平然と口にする彼らの姿に、石井氏は大きな違和感を覚えました。
「効利主義」がもたらしたエリートの「思考停止」
石井氏が提言する「なぜ日本の、いや世界の高学歴エリートがまともな思考力を失ってしまったのか」という問いへの答えは、「効利主義」に支配されてしまったからだというものです。効利主義とは、「役に立てばそれでいい」という考え方。すぐに役立ち、社会に出てお金を稼げることだけが価値を持つ、という思想です。
その典型が、日本における「理系志向」や「医学部至上主義」であると石井氏は指摘します。「医学部がエリート」とされるのは、それが「役に立って金になる」からに他なりません。一方で、「古典は必要ない」「文系は役に立たない」といった言説も、すべてこの効利主義に根ざしていると彼は語ります。
アメリカ発の「効利主義教育」:ハーバード大学の変革
この効利主義的な動きは、戦後の日本がアメリカの教育システムを模倣した結果として始まったと石井氏は解説します。そのルーツは、ハーバード大学のチャールズ・ウィリアム・エリオット学長に遡ります。彼は科学者であり、学長に就任すると「古典教育は不要」として、それまでの教養教育を重視するシステムを一掃しました。これに対し、アービング・バビットやT.S.エリオットといった学者たちが抵抗しましたが、エリオット学長の強い権力と、他の教育機関への影響力により、アメリカの名門大学は次々と古典教育を廃止していきました。
その結果生まれたのが、いわゆる「STEM教育」と呼ばれる分野への重点化です。Science(科学)、Technology(技術)、Engineering(工学)、Mathematics(数学)に特化し、社会に出てすぐに金が稼げるスキルだけを重点的に教える教育システムがアメリカに定着し、それが戦後の日本にも猿真似のように導入されていったと石井氏は主張します。
暗記能力と計算能力の先にある「思考力の欠如」
このような教育システムの結果、日本の高学歴層には「まともに考える能力がある人間がいない」と石井氏は断言します。彼らは、入学試験で求められる「丸暗記能力」と「計算能力」に非常に長けており、模範解答を完璧に頭に入れ、それを再現する能力に秀でています。しかし、その一方で、「自分で考える能力」はむしろ低学歴の人々よりも低いのではないか、とまで言い切ります。模範解答を暗記することに特化しすぎた結果、模範解答がない状況では思考が停止してしまう習慣がついてしまった、というのです。
「高卒の方が話が通じる」衝撃の告白
石井氏の個人的な経験も、彼の主張を裏付けています。彼は、LINEの友達の多くが「全然難しい大学を出ていない」人々、例えば高卒や専門学校卒、短大卒の人々であると語ります。彼らの方が、意外にも「話が通じる」と感じる場面が多いというのです。一方で、東大などの難関大学に進学した高校時代の同級生と話すと、ふわっとした議論しかできず、模範解答以外の話になると途端に何も言えなくなるといいます。性格は良く、優しい彼らであっても、「知的な深さ」や「面白さ」を感じることは全くない、と石井氏は手厳しく分析します。
「学校の勉強ができる人ほど思考力がない」という真実
石井氏は、「学校の勉強ができる人が頭がいいわけではない」という一般的な主張に賛同し、さらに一歩踏み込んで「学校の勉強ができる人ほど思考力がない」とまで言い切ります。彼は、学校の勉強ができるようになる過程そのものが、自分で考える能力を削ぎ落としていく訓練であると指摘します。考えずに模範解答を覚え、「こう言われたらこう返す」という訓練を長年続けることで、大学受験を突破し、晴れて高学歴になる。しかし、それは「思考力を削ぎ落とされた結果」に過ぎないという、衝撃的な見解を述べるのです。
対戦ゲームの高ランクプレイヤーと「高学歴」の共通点
石井氏は、高学歴の人々を「対戦ゲームの高ランク隊と同じ」だと比喩します。ApexやValorantといった対人ゲームで最高ランクに到達するプレイヤーと、東大や医学部に合格する人々の態度が非常に似ているというのです。Twitterなどで見かける「東大合格」や「レディアント到達(Valorantの最高ランク)」といった投稿は、石井氏の目には同じようなタイプの人間が発信しているように見えるといいます。それは、ひたすら努力し、競技をやり込むことでランクが上がる、という点で共通しているからです。
高学歴者への提言:あなたは「思っている以上にバカ」である
石井氏は、高学歴の人々に対し、まず「あなたたちは自分が思っている以上にバカである」と突きつけます。彼らは、そうなるような教育をずっと受け、それに従ってきたからこそ高学歴になれたのであり、それは「バカになることと引き換えに高学歴になっている」のだと説きます。
一方で、低学歴の人々に対しては、「あなたたちはまだまだ高学歴の人たちよりもまともな思考力がある」と激励します。模範解答を丸暗記する訓練にまだ従事していないため、彼らの方が話が通じやすいことが多いというのです。
「大衆化されたエリート」と失われた知性
現在の日本の大学進学率は5割を超えています。これは、もはや大学に行くことが「高等教育」とは言えず、教育そのものが「どんどん劣化している」と石井氏は指摘します。東京大学のような最高学府でさえ、共通テストを受ける現代において、彼らを「トップ1%の知的なエリート」と呼ぶことはできない。むしろ「大衆化されたエリート」「量産型」と呼ぶべきではないか、と彼は問いかけます。
真の「知性」を取り戻すために:古典文学・哲学の重要性
石井氏は、効利主義の重要性を認めつつも、社会を動かすリーダーや「鉄人」を育てるためには、古典文学、古典哲学、そして古典的な名著を学ぶことが不可欠であると強調します。ソクラテス、プラトン、アリストテレス、釈迦、孔子、イエス・キリストといった2500年前の天才たちが築き上げてきた思想を学ぶことで、彼らがどのように物事を考え、社会を運営してきたのかを理解できると語ります。
彼は、現代社会に蔓延する「新しければ何でもいい」という風潮に警鐘を鳴らします。例えば、一見すると奇抜な学者であっても、その言葉が「日本最先端の知性」として受け入れられてしまう現状を憂います。中身のない言動であっても、高学歴であるというだけで否定できなくなっている現代人の姿を厳しく批判し、「そろそろ大人になってほしい」と訴えます。偏差値や学歴といった「どうでもいい」価値観に惑わされず、過去の偉大な思想に学ぶことの重要性を力説します。
まとめ:私たちは何を学ぶべきか
石井雄己氏の主張は、多くの人にとって耳の痛い話かもしれません。しかし、彼の言葉は、現代社会が抱える「知性」と「エリート」のあり方に関する深い問題を浮き彫りにしています。学歴社会の歪み、効利主義の弊害、そして失われつつある思考力。これらに対し、私たちはどのように向き合い、真の知性とは何かを再考する時期に来ているのではないでしょうか。彼の動画は、私たち一人ひとりが自身の学びと価値観を見つめ直すきっかけを与えてくれることでしょう。
いかがでしたでしょうか。石井雄己さんの動画は、高学歴という現代社会の「常識」に疑問を投げかけ、多くの議論を呼んでいます。あなたは彼の意見についてどう思われますか?
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