しぐれういの「粛聖!! ロリ神レクイエム☆」のブームから考える:男性卑下とジェンダー論の複雑な交錯

しぐれうい氏による楽曲「粛聖!! ロリ神レクイエム☆」は、2023年9月のMV公開以降、瞬く間に社会現象となりました。TikTokやYouTubeを中心にダンス動画やミームが拡散され、1億回再生を突破するなど、その人気は国内外に及び、インターネット文化の底力を示しました。この楽曲は、フィクション上の「ロリコン」と呼ばれる男性を、幼女キャラクターがテンプレート的な罵倒やビームで「粛清」するという、インターネットミーム的な要素を電波ソングとして昇華したものです。しかし、その爆発的な人気の一方で、この楽曲が内包する「男性卑下」の表現が、現代社会におけるジェンダー論とどのように結びつき、どのような影響を与えているのか、深く考察する必要があります。

楽曲にみる男性卑下の構造と「お約束のネタ」化

「粛聖!! ロリ神レクイエム☆」では、「ロリコン」、すなわち主に成人男性を指す存在が、幼女キャラクターによって痛烈に罵倒され、「粛清」されるという構図が描かれています。これは、現実の犯罪者や加害者を糾弾するというよりも、インターネット上で消費される「お約束のネタ」として、男性側の「弱さ」や「滑稽さ」を戯画化し、笑いの対象としている側面が強いと言えます。こうした表現は、特にオタク的な属性を持つ男性が自虐的に消費する傾向もあり、自己卑下や自虐ギャグの延長線上にあると捉えることもできます。

日本社会の「謙譲」文化と男性卑下の美化

日本社会では古くから「謙譲の美徳」が重んじられ、自己卑下や控えめな態度が美徳とされる傾向があります。この文化がジェンダーの文脈に持ち込まれると、時に複雑な様相を呈します。「男性は自分の特権性や加害性を自覚し、反省し続けるべき」という社会的圧力が生まれ、「男性であることの罪悪感」を内面化する若者も現れると指摘されています。インターネット文化では、こうした男性卑下が「面白い」「正しい」とされやすく、自己批判や自虐がエンターテインメントとして美化される傾向が強まっています。

フェミニズム影響下の男性論と罪悪感の押し付け

一部のフェミニズム論や男性学においては、「男性であること自体」に罪悪感や自己批判を求める論調が見られます。これが過度になると、「男性は存在自体が悪であり、無限に反省し続けるべき」といった極端な自己否定や、さらには「男性抹殺欲望」(男性であることの否定)へとつながる危険性も指摘されています。このような議論が、男性がジェンダー問題に対して意見を表明しづらい風潮を生み出す一因となっている可能性も否定できません。

「粛聖!! ロリ神レクイエム☆」の流行が象徴するもの

この楽曲の爆発的な流行は、インターネット社会における男性卑下の表現が、ある種の「カタルシス」や「自虐的な笑い」として消費され、美化されている現状を象徴していると言えるでしょう。一方で、こうした表現が繰り返されることで、「男性=滑稽で粛清されるべき存在」というイメージが無自覚に強化され、ジェンダー間の健全な対話や相互理解を妨げるリスクも孕んでいます。エンターテインメントとしての消費が、現実の認識に影響を与える可能性を無視することはできません。

ネタ的要因が「女性が男性を軽く扱っても良い」という認識につながる背景

「粛聖!! ロリ神レクイエム☆」のようなネタ的要因が、「女性が男性を軽く扱っても良い」という認識につながる背景には、複数の複雑な社会構造が絡み合っています。

メディア・ネット文化によるジェンダー観の再生産

近年のネットミームやエンターテインメントコンテンツでは、男性をネタ的・滑稽な存在として扱う表現が増加しています。これらの表現は、従来の「女性蔑視」への反動や、男性側の自虐・自己卑下を笑いに昇華する文化と結びついています。このような「男性を軽く扱う」表現が繰り返し提示されることで、受け手側、特に若い世代のジェンダー観に影響を与え、「男性をネタにしても許される」「男性をからかうのは問題ない」といった空気が醸成されやすくなります。

SNSとフェミニズム運動の影響

SNSの普及は、女性が自分たちの立場や不満を発信しやすくする大きな要因となりました。「#MeToo」などの運動を通じて女性の声が可視化され、男性優位社会への批判や、男性の言動を揶揄するミームが拡散されやすくなりました。このような現象は「第四波フェミニズム」とも称され、メディアやSNSで描かれる男性像・女性像が人々のジェンダー観に強く影響を及ぼしています。

歴史的なジェンダー不平等への反動と「正義」の大義名分

長年にわたり、男性優位社会や男尊女卑的な価値観が続いてきた歴史的背景があります。そのため、女性が男性を軽く扱うことが、「逆転現象」や「正義のカウンター」として正当化されやすい土壌が存在します。過去の不平等への反発や、女性側の「自分らしさ」を獲得しようとする運動が、男性をネタ化することへの心理的ハードルを下げている側面があると考えられます。

男性側の「見えにくい不利益」や軽視の常態化

社会的には依然として「男性は優遇されている」というイメージが強い一方で、実際には「男性は稼がなければならない」「弱音を吐けない」といったプレッシャーや、「男性への配慮の欠如」が見えにくい形で存在します。しかし、こうした男性の不利益は社会問題として認識されにくく、「男性は軽く扱っても構わない」という無意識の偏見が温存されている側面があることも否めません。

男性がジェンダー問題に意見しづらい風潮の存在理由

男性がジェンダー問題に対して意見を表明しづらい風潮が存在する背景には、根深い社会構造と文化的な要因があります。

ジェンダー問題=「女性問題」とされやすい構造

日本社会では、ジェンダー問題が「女性の権利向上」や「女性の不利益是正」として語られることが多く、男性の側の困難や不利益が見えにくい傾向にあります。そのため、男性が自分の立場や違和感を表明しようとすると、「特権側の反発」や「被害者意識」と受け取られやすく、発言自体が歓迎されにくい空気が生まれてしまっています。

「男らしさ」規範と感情表現の抑圧

「感情的になるのは男らしくない」「弱音を吐くのはみっともない」といった「男らしさ」の規範が依然として根強く残っています。これにより、男性が自分の弱さや不安、違和感を素直に表現すること自体がタブー視されやすい現状があります。結果として、ジェンダー問題に対しても「黙って従うべき」「反論は逆差別の主張と受け止められる」と感じやすくなっています。

歴史的な「男性優遇」イメージと社会的反発

長年、社会的に「男性は優遇されてきた」というイメージが強く、現代においても「男性は既得権益を持つ側」と見なされがちです。このため、男性が不利益や違和感を訴えると「これまで十分に優遇されてきたのに、まだ不満を言うのか」といった反発を受けやすい土壌が存在します。

無意識のバイアスと議論の困難さ

「男はこうあるべき」「女はこうあるべき」という無意識の思い込みや社会通念が根強く、男女ともにジェンダー観のアップデートが進みにくい状況です。このため、男性が声を上げても「被害者意識」「女性の敵」といったレッテルを貼られやすく、建設的な議論が阻まれやすくなっています。

男性がジェンダー問題を「自分ごと」として考えるメリット

男性がジェンダー問題を「自分ごと」として捉えることは、個人の生活だけでなく、社会全体にも多くのメリットをもたらします。

生きづらさや制約からの解放につながる

男性も社会的に「男らしさ」や「こうあるべき」という規範に縛られ、知らず知らずのうちに生きづらさを感じている場合があります。ジェンダー問題を自分ごととして考えることで、こうした無意識の制約やプレッシャーに気づき、そこから解放されるきっかけとなります。

多様な男性像や自分らしい生き方を選びやすくなる

「理想的な男性像」にとらわれず、自分自身の価値観や選択を尊重できるようになります。男性内部の多様性や、男性同士の間にある差別・格差にも目を向けられるようになるため、より自分らしい生き方を模索しやすくなります。

当事者意識が芽生え、社会的な変化に積極的に関われる

ジェンダー問題を自分ごととして考えることで、課題解決に向けた意見交換や行動が活発になり、より良い社会づくりに主体的に関われるようになります。これは自分自身の成長や、周囲からの信頼獲得にもつながります。

内発的な動機付けや自己成長の促進

指示や外部からの圧力ではなく、「自分のため」「自分の人生に関わること」として取り組めるため、モチベーションや責任感が高まり、自己成長の機会も広がります。

まとめ:ジェンダー観と表現のあり方への問いかけ

「粛聖!! ロリ神レクイエム☆」のブームは、インターネット文化における男性卑下や自虐の美化、そして日本社会に根付く謙譲・自己卑下の美徳が、ジェンダー論と結びつき、エンターテインメントとして消費されている現象の一端を示しています。この現象の背景には、「男性であること」自体への罪悪感や自己批判を求める社会的圧力、そしてそれを笑いに昇華するインターネット文化の特性があります。

こうした複合的な要因が、「女性が男性をネタ的に、あるいは軽く扱っても良い」と感じやすい社会的雰囲気を生み出し、同時に男性がジェンダー問題に意見しづらい風潮を助長していると考えられます。しかし、ジェンダー平等とは、男性も女性も、それぞれの性別によって不利益を被ることなく、自分らしく生きられる社会を目指すことです。

男性がジェンダー問題を「自分ごと」として捉え、積極的に議論に参加することは、自身の生きづらさからの解放、多様な生き方の選択、そしてより良い社会を築くための大きなメリットとなります。今後も、ジェンダー観や表現のあり方について、多角的な視点から慎重な議論が求められるでしょう。私たちは、この楽曲のブームを単なる一過性の現象として捉えるのではなく、現代社会が抱えるジェンダーに関する課題を浮き彫りにする重要な契機として、深く考察していく必要があるのではないでしょうか。

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